「平時ではない」

表現とは難しいもので、SNSでただいまを「戦時」と綴ると、まるで扇動者のように扱われてしまう。

ウクライナの現状を想像するとき「戦時」に切り替わらない人がいるのだろうか。

この想像をしている自分の座標によって「戦時」だったり「平時」だったりというのは屁理屈なのだ。

私は確かに「戦時」のなかにいる。

ただし、違和感もある。

日本の北海道で生活している私が「戦時」のなかで懊悩していようとも傍目には何ら関心の対象にはならないからだ。

それは家族も同様で「父ちゃんが『戦時』を憂いている」状況にいつまでも付き合っていられるほど暇ではない。

私の「戦時」を共有できないこの寂しさとは何だろう。

「戦時」という言葉が不適当だというのなら「平時ではない」を用いてこれを貫こうか。

おそらく狂人と化したプーチンがこの戦争に「生物化学兵器」や「核兵器」の使用する可能性はじゅうぶんにある。

COVID-19の蔓延のそれ以上にこの戦争の被害は私たちにも及ぶことだろう。

地球の体のなかに”廃用身”ができてしまっているのだ。

ウクライナの大地を切り捨てて何事もなかったようにこのまま世界が続いて行けるとはとても想像できない。

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