野次と罵声
野次と罵声の境界を決める権限とは?そしてその権能を有するのは誰か。
「道警ヤジ排除」事件の判決では様々なことを考えさせられました。
記事にもある「周囲の冷ややかな視線」というのに本件のすべてが集約されているわけです。
あの場の「空気」の成分はおそらく頑迷な者たちばかりではなく通りすがりの有権者もたくさんいたはずなのです。
ゆえに怖い。
あの場の集団がなんとなく醸成していた「空気」の怖さがいかに一個人や少数者には堪え難いものであったか想像に易い。
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話はそれます。
野球にしてみて考えてみましょう。
球場に通わない人なのでひたすら想像するしかないのですが、今ってヤジ(野次)のないプロ野球の試合なんてあるのでしょうか。
贔屓チームの対戦相手に対して野次を慎むような風潮がもしあるとしたら、それは様変わりとして受け容れるしかないのでしょうか。
野次も含めて現地で観戦する「プロ野球の試合」はなんとなく面白かったはず。
大衆とは個々人が過度に侵害されない限りにおいて「みんな」で一括りされる状況なので、そのみんな(大衆)が興ずる「プロ野球の試合」に対して誰がどんな権力が野次くらいのことに介入する必要があるのだろうと考えるのです。
「街頭演説」は「プロ野球の試合」ではない。
それはわかる。
しかし「プロ野球の試合」にも興ずるみんな(大衆)に対して行われる「街頭演説」において、野次を罵声と決めつけたりそもそも野次ってもいないのに過度な警戒をして「らしい人」を排除しようとする行為そのものは異様としか思えないし権力の濫用以外のなにものでもないのです。
民主主義の社会で暮らしているという共通項を理解し合えていない状況は時とともに確実に腐食していきます。
そこに加えて警察権力は本当に恐ろしい。
一度スイッチが入ってしまったら正当な主張したところで個人などが抗う相手ではないのは明らかです。
そんな誰もが遭遇しうる危険なイメージを新たにし、今朝はこの<記者の視点>を書いた記者さんの考察に感心していました。
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野次と罵声の境を決めるのはわれわれだね。
われわれに真正な情報を提供するのは記者さんの役割だよね。
だからたまにはエールをおくりたいのです。
誰かの見解に頼りきっている人が大勢いるからね。
いつもその場で境を決めなくてはいけないのに。
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