内なる生もの
今朝配信したメールの中で、本日は節分、内なる魔物を追い払う日です、なんてくだりを書き連ねました。
でも今日では内なる魔物を差し置いて「内なる生もの(なまもの)」のほうが台頭しているようです。
生ものとは情報(殊に鮮度のみに価値があるような情報)のこと。
「恵方巻」やそれに関連する「今年の方角」なんていうのは完全に「生もの」です。
メディアやネットを介してこれらの「生もの」に翻弄され続けているのが生身の人間、私たち。
内なる魔物を追い払い年一のリセットをかけておかなければならなかった弱い存在。
仮にリセットをかけたところで、「内なる生もの」に隷従しているであろう明日はこの世の<春>と呼べるのか。
かく言う私は「情報」が大好き。
「内なる生もの」と「情報」が等価になったり換価不能になったりしながらここまで来たわけですが、正直なところそろそろ処理が間に合わなくなっていることに気づいています。
例えば「雑誌」一冊の情報の処理にまるひと月は要すると思われます。
この現状はなかなか厳しい。
あれもこれも気になるという性癖が「内なる生もの」をとんでもないものに変容させてしまうことが起こります。
そのためのエネルギー源はほぼ電気なので、とんでもなくなってきたら電気を切るようにしていますけれども …
スマホもPCも結局のところ「内なる生もの」を作り出す鬼の親分みたいなものかもしれません。
鬼の親分は星の数ほど … いや数える必要はありませんね。
と言うことで、<世界>は恐ろしい。
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<注釈>
「内なる◯◯」の『内なる』と表現するところは<他者にも、そしてもしかして自分にも、分からない>というニュアンスをこめたつもりです。
「情報」とは<自分だけが知っている情報><他者も自分も知っている情報>などがあって、さらに他者から見て<あなたが知っているはずの情報><あなたが知らないはずの情報>などがあって、さらにさらに記憶力という条件が加わると<あなたが知っていたはずの情報><あなたが知らなかった情報>など、正しく魔物のごとく変容するわけです。
「情報」をどのように捉えるかそのメソッドとは人それぞれ固有のものと社会で共有しているはずのものがあって … やはり魔物のごとくなのです。
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